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─滋賀県歌人協会の歩み─

 

大正15年近江歌人連盟

昭和15年 滋賀県歌人会   昭和56年滋賀県歌人協会

平成

「近江歌人連盟の結成」

@近江歌人連盟 (大正15年2月結成)


   =昭和前期=

  近江歌人連盟の結成 

 大正十五年二月に佐後淳一郎、木村緑生、米田雄郎らの発起により、近江歌人連盟を結成した。

「滋賀県歌人会の誕生」

A滋賀県歌人会 (昭和15年4月結成)


  滋賀県歌人会の誕生

 昭和十五年四月には前田夕暮、矢代東村、原三郎、野口謙蔵を迎え大津長等公園下神社会館にて紀元二千六百年奉祝歌会が開催され、県下の歌人が多く集合した。

 十月には、ノモンハンにて戦死した中采雅行の遺歌集『曳光弾』の出版もされた。昭和十六年六月、大日本歌人会が結成され、米田雄郎はその評議員となった。同年の十一月三日には、大津市公会堂三階で大日本歌人会滋賀県支部発会式があり、米田雄郎が支部長となった。これが滋賀県歌人会の初めということになる。

滋賀県歌人協会の結成

B滋賀県歌人協会 (昭和56年4月結成)

「歌人協会の発足」


 昭和五十五年十一月二十四日に米田雄郎の第四歌碑が、蒲生郡蒲生町石塔の極楽寺に建立された。米田雄郎は二十五歳から六十九歳で亡くなるまで四十四年間をここに過ごし、県での明治百年の功績者の中にも加えられている。この除幕式には東京より香川進(宮中新年歌会選者)や、富永貢(東京・結社北斗)、当時の県議会議長小島幸雄ら約百二十名が参列した。歌碑の歌は

”いくばくのいのちとぞおもふときにしも春のよろこびもちてくらさな”

である。その節、米田雄郎が生前努力した滋賀県歌人会が雄郎没後数年で自然消滅のかたちとなり、全県的なものは滋賀文学会の短歌部門として続い ているだけなので、再興すべき時期が来ているのではないかという意義深い渡辺朝次 (左イラスト)の発言があった。このことについて後日、県内の若手歌人の山村金三郎(右下イラスト右側)・小西久二郎(右下イラスト左側)が推進役となって準備にとりかかったのである。


この年、近江神宮の天智天皇鎮座四十周年記念に、全国から献詠を募って短歌大会をひらいた。香川進・米田登・飯田棹水・伊藤雪雄・三品千鶴・山村金三郎・柳田暹暎らが選歌し、講評した。

 10月には中部短歌会支部から合同歌集「みずうみ」が短歌叢書第85編として、津川薊花や犬山遊らの編集によって出版されている。ここには昭和初期「いぶき」を創刊した亀山美明の作品も掲載されている。

 歌人協会の発足

昭和五十六年一月十五日、西福寺において発起人会を開催。三十四名が出席して、滋賀県歌人会の発展的なものとして滋賀県歌人協会として発足しようということとなった。事務局は当分の間、大津市春日町の山村金三郎方とした。三月十四日の小委員会、三月二十九日の幹事会を経て四月五日の創立総会となった。

先ず滋賀県歌人協会規約が承認され、その席で初代の代表幹事に伊藤雪雄、副代表幹事に山田平一郎・柳田暹暎・主事に山村金三郎・その他幹事が選ばれた。この時会員は八百五十名であった。

 最後に県出身者が他府県において現在活躍されている方々の名を参考までに掲げておく。木俣修・富永貢(東京)・塚本邦雄・米田登・高木義胤・飯田棹水(大阪)・中野照子・永田和宏(京都)・磯島静江(奈良)等である。


 この「県歌人協会の歩み」は 、伊藤雪雄師著「昭和の湖国歌壇」を、現滋賀県歌人協会に関わる部分を抜粋して転載させていただいて作成したものです。